現存する最古の2国間同盟「ウィンザー条約」が、イングランドとポルトガルの間で結ばれた14
世紀にポートワインの歴史は始まりました。
ポルトガル王ジョアン1世とイギリスの王子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパが結婚し締結された同盟がウィンザー条約です。
この条約はポルトガルとイギリスの間に政治的、軍事的そして商業的な密接な関係を築き、結果として多くのイギリスの商人がポルトガルで事業を設立しました。(後にテイラー、グラハム、オフリーのような有名なポートワイナリーなど) そして、ポルトガルのソウルフードBacalhau(塩漬けのタラ)と引き換えにイギリスへワインの輸出を始めました。
1654年に、ウィンザー条約は英葡永久同盟によって再検討され、商人は新たに特別な権利と優遇された関税を認められました。
その時代、イギリスに輸出されたワインはライトボディで酸味があり、現在のVinho Verde地域で生産されていたものでした。
15世紀後半、フランスのルイ14世がイギリスとフランスの間の貿易をすべて差し押さえたとき、ポルトガルのワイン産業は、競合するフランスの輸入品がないことから、イギリスでのポルトガルのワイン販売を大幅に増加させました。
しかし、そこには一つ問題がありました。イギリス人は、ライトボディで酸味があるワインをあまり好きではありませんでした。
この問題を解決するために、ワインメーカーはより乾燥した気候を求め、内陸部に移動し、岩肌の山が多くあるドウロ地方でワインづくりを始めました。そこでイギリス人の好みに合うフルボディーでコクのあるワインが生まれました。
ドウロでつくられたワインはbarcos rabelosと呼ばれる船でドウロ川からポルトの街まで運ばれ、イギリスに出荷されました。 そのワインはポルトの名にちなんで「Port」と命名され、1678年に正式名称として初めて出荷されたことが記録されています。
長い海での旅の間にワインの風味や味が落ちるのを防ぐために、商人たちはワインにブランデーを加える工夫をしたことで誕生したものが、今の私たちが知るポートワインの最初の形でした。
18世紀までには、イギリスが最大の輸出国として維持していましたが、オランダやドイツなどの他の国々でポートワインへの関心が高まり、輸出量が大幅に伸びましたが、需要の増加に伴い信頼性の問題が生じました。
ワインメーカーは、貧弱なワインをより美しく見せ、品質の錯覚を与えるための詐欺行為に目を向け始めたのです。 その結果、需要は急激に落ち込み、商人たちはワイン貿易事業で過剰生産の危機に直面しました。
1756年、ポルトガルの政治家ポンバル侯爵がドウロのワイン産地の境界画定を命じ、ポートワインの生産と貿易を統制するために、Companhia Geral da Agricultura das Vinhas do Alto Douro(現在のレアル・コンパーニャ・ヴェーリャ社)を設立しました。
生産されたポートワインの品質によってぶどう畑の評価がされ、より質の高い最高品質のポートワインは、高い価格で輸出販売されていました。
当時はこの独占的な貿易は不評でしたが、Marquis of Pombalはポートワインの品質を管理し、生産者と船荷主の両方にとって成長と繁栄の時代を迎えました。
18世紀の終わり頃、酒精強化されたワインは人気を得始めました。
この方法では、より甘く、強く、そして芳香の高いワインをつくることができ、熟成過程の可能性に優れています。
ワインのアルコール分を強化する方法は生産者の間で広く受け入れられ、19世紀半ばまでに広く普及しました。
19世紀はポートワイン事業に多くの挑戦をもたらしました。
ポートワインはイギリスの生活の一部として浸透し、輸出はロシア、ドイツ、オランダ、スカンジナビア、米国など多くの国に広がり繁栄しました。しかし、半島戦争、フランスの侵略、そしてポルトガルでの内戦によって、ポートワインの貿易は大きな被害を受けました。
南北戦争の終戦後、貿易は再び本格的に拡大しましたが、ヨーロッパ中のブドウ畑を壊滅させた害虫の被害によって繁栄の時代は終わりました。
害虫に抗体のあるアメリカのぶどうの木にヨーロッパのぶどうの木を接ぎ木するという解決策が見出されたことにより、いくつかの生産者はブドウ畑を回復することができましたが、他の生産者はぶどうを植え替えることができず事業を放棄し、 地元でmortóriosとして知られている放棄されたぶどう畑は、未だに手つかずのままです。
ブドウ畑は徐々に回復していき、20世紀になると再び生産と販売が盛んに行われるようになりました。
ポートワインの人気は高まり、新たな市場が生まれフランスは現在、ポートワインの大きな輸入国となっています。
1933年、ポートワイン協会はポートワインの取引を規制し管理するために設立されました。
第二次世界大戦はポートワインの貿易に大きな影響を与え、売上高は大幅に減少しました。 多くの小規模生産者は自分たちの資産を大企業に売却し、そしてワイン事業は戦後の時代に適応することを余儀なくされました。
この時代は、主に裕福な家庭向けに販売されていたビンテージポートと、手に入りやすいルビーポートの2種類のポートがありました。
しかし、ポートがスーパーマーケットチェーンで直接消費者に販売されるようになると、新しいタイプのワイン消費者が現れました。
新しい層の顧客たちは最高品質のポートワインを熱望していましたが、ビンテージポートの価格は購入を思いとどませるほどでした。
このニーズに目を付けた有名なポートワインプロデューサーのTayllor’sがLate Bottled Vintage(LVB)を発表しました。
ヴィンテージ ポートと比べ、瓶詰めのタイミングが遅くなるものの、1年樽内でエイジングさせるため熟成が比較的早く進行し、瓶内熟成の期間が短いことで保管コストが削減でき、とてもよい品質のものが手に届く価格で提供されるようになりました。
現代の生産者たちも進化を続けており、近年の技術的進歩や投資は、ブドウ栽培およびワイン製造の両方において新しい手法の導入を可能にしています。
全世界において環境と持続可能な産業に対する関心が高まり、ポートワイン産業にとって最初の有機ブドウ畑の出現をもたらしました。